相聞の森林限界 —佐々木朔『往信』評
早春の過眠はきみに告げてありきみに言われるたび思い出す 佐々木朔『往信』
不思議な歌だと思う。連作の前後の歌と照らすと、現在がまさに早春、すくなくとも春ではあるらしい。〈私〉は、早春にきまって眠りすぎる自らの性質をつい最近、「きみ」に告げた。結句は二通りに読める。告げたことを忘れていて、「今日もよく眠ったの?」などと聞かれるたび、ああきみには言ってあったんだっけと「思い出す」。もう一つの解釈は、春に眠りすぎる性質を、「きみに言われる」ことによって、〈私〉の身体が「思い出す」。後者のほうが変なのに、そちらにより魅力を感じるのはなぜだろう。「告げてあり」の一度の往信に対して何度も、おそらくおもしろがりながら反射される返信に、因果の転倒(というより循環?)をふくんだねじれを聞き取ってしまうからかもしれない。ねじれながら、不思議にディスコミュニケーションではない。きみが声を発した〈今・ここ〉が、永遠に近づく錯覚に陥る。
この歌を含む連作のタイトルは「ラブ・コメディ」で、東京でたまに斎場のアルバイトをしながら暮らす語り手にとって、「きみ」は恋慕にちかい好意の対象らしい。けれど、「きみ」との関係になにかの結論が出るわけではない。
生きているものだけが病む明け方の運河は鴨とひかりをあつめ
いちめんに銀杏つぶれラブコメの最後はかならずラブが勝つこと
航空事故のドキュメンタリーを観終わってきみにみじかいメールを書いた
連作の終盤から三首続けて引いた。一首目、あきらかに生物である鴨だけでなく、「ひかり」「運河」もまた「生きているもの」に数えられていて、ゆえにそれらにもひそかに生老病死を見てしまうまなざしが切ない。二首目は単体で読めば、「ラブが勝つ」と確信して、あるいはそう自分を奮い立たせ、いまにも思いを告げにいきそうな印象もあるのだけれど、三首目のメールの内容はおそらくそうじゃない。「生きてる?」とか「元気?」とかかもしれないし、他愛ない話かもしれない。航空事故のドキュメンタリーを観て、きみに死がいつでも訪れうることを思い出す。安易な連想かもしれないが、まっとうで生理的な反応だと思う。それにしても、このメールは結局送信したのだろうか?
AIは今のままでも人間が死ななくなればなくなる仕事
コメの要素がだいぶ強めのラブコメの主人公まあまあ好ましい
思い出になってはじめて好きになる芝居のなかの男の子たち
一首目の「仕事」は、連作の流れから斎場の仕事だろう。ひと一人の人生の物語に幕を下ろすための儀礼的な手続きも、死がついぞ訪れないならば不要だ。二、三首目で吐露される好ましさは、対象が死にそうにないことに由来するところが大きいのではないか。物語のコメディ色が強いほど主人公は不死に近づく。観劇後すぐには、作中とその後の「男の子たち」の人生や運命をなまなましく思い描いてしまっていたが、時間が経てば物語の中に凍結して、心穏やかに愛でることができる。作中人物と生身の演者の境界を巧妙にぼかす下の句の言い回しも相まって、「好きになる」ことの後ろ暗さが裏側にぴたりと貼りついているから、わたしはこの歌がだいぶ好きだ。
ふたたび「ラブが勝つこと」の歌に戻ると、銀杏がつぶれる饐えたにおい、しかも「いちめんに」「かならず」の強い言い切りにわたしは、「コメの要素」がラブに塗りつぶされてしまうことへのおののきを嗅ぎ取り、聞き取ってしまう。ラブコメにおけるラブの勝利は、典型的には物語にひとつの区切りをつける性質を持つし、けれどそれは登場人物の人生の時間を死へと進めることも意味する。悲恋であれ、幸福な愛の成就であれ。
連作「ラブ・コメディ」の主人公が書いたみじかいメールには、この瞬間きみがたしかに不死であってほしいという祈りと、ラブの勝利への希求が、ないまぜのまま凝縮されている。
この種の祈りと希求は、歌集『往信』に通底する。そしてどうやら、不死への祈りの方が、他方を上回りがちである。
小説の終わりに咲いている花の香りをいつまでもかいでいた
小説にきみを書いたら小説のきみの前途はかがやくだろう
気になるあの娘の願いであればぶかっこうな不老不死でも叶ってほしい
高台を通りすがりに見始めた花火がおわらない夏の夜
小説の終わりに咲いた花に老病死は訪れず、いつまででもかぐわしい香を放つのと同じ理屈で、小説に書けば小説の中の「きみ」は無欠だ。三首目は、〈私〉の望む無欠な姿でなくとも、「あの娘」自身の願いであるなら不老不死が叶ってほしいと述べているのだが、そもそも「願いであれば」と歌全体が仮定の話なのだ。ラブの勝利どころか、これらの歌の〈私〉は、徹底して生身の「きみ」に近寄らず、手を下さない。
四首目、思いがけず見入ってしまったことで、花火が上がる有限の時間がどこまでも引き延ばされる感覚がおもしろく、初出で読んだときから好きな歌なのだけれど、歌集の中に置かれると、より強く思いを込めて凝視している印象になった。
みずいろの業務日誌に元号のイニシャルばかりせわしなく書く
駅で見た猫の写真がこの町のすべての猫の始祖だと思う
日本がいずれほろびてしまっても天皇がいるから大丈夫
不死や永続性について、『往信』の作者はときにもっと極端なことを考える。一首目はふたたび「ラブ・コメディ」からで、この業務日誌は葬儀場のそれだろう。先に元号のイニシャルを書き込んでさえしまえば、その治世が永続するかのような錯覚。「始祖」の血族さえ残れば「大丈夫」だと請け負う声の、そら明るい不気味さ。
写真の被写体になった猫ではなく、「猫の写真」を始祖だと思い込むのもやはり変である。この始祖と子孫の関係は、「きみ」と「小説のきみ」のそれに通じる。でも、だとすれば、書かれたきみのほうが生身で、現実のきみが「写真」だということになってしまう。あるいは、「きみ」はそもそも写真を見るようにしかまなざせないのではないか?
ここでようやく「森」の話をしたい。
きみがあたしの森にいたころさかしらな鳥だったこと レタスをかじる
強いひかりがあたると森はあっけなくあっけなく、手をつないで逃げた
一首目、「あたし」の好意に対して「きみ」は思い通りに振る舞いはしなかった。逃がしたのか、逃げられたのか、そもそも森へは気まぐれに出入りしていたに過ぎなかったのか。「さかしら」はふつうほめるときには使わない言葉だし、この歌でも苦々しさを含んでいるのだが、どこか翻弄された記憶を楽しんでいるようでもある。レタスは森の断片だろうか。それにしてははるかに薄くて明るい。二首目、強い光に消えてしまいそうな森から逃げようとつないだ手は、きみの手だろうか。小説のきみの手だろうか。
『往信』にとって森とはなんなのだろう。この文章を書くために籠もった図書館の参考図書コーナーで『植物の百科事典』を手に取ってみると、「植物の群落(Ⅰ)森林」の項にこんなことが書いてあった。
森林限界は基本的には気候で決まるが、外来の樹木によって変化することもある。マツ科は北半球の森林限界をつくる重要な針葉樹だが、南半球には分布していなかった。北米から導入されたラジアータマツは南半球では森林限界をこえる地域まで植林が可能で、本来高山帯であったところにも森林がつくられている。 (*1)
森とは、小説のきみを匿うための、枯れない花が香り続ける場所なのかもしれない。だとすれば、その森林限界を拡張すれば、もっと高く、やがて天上にまで到れるのではないだろうか? 小説に行を足していくように、修辞を用いて、言葉を植林したならば。
発話しかできない機械抱きかかえいちばん高い階へのぼった
わたしは本と言いまちがえてはるかなる国の図書館にしまわれる
わずかでも高い標高、あるいはここからもっと極地に近い高緯度の国。これらの歌に書かれた行為や状況は、もとあった森林限界を越境し、言葉を不死に到らせようとする企てに見えてくる。しかし突き詰めたその企ては、言葉を投げかける相手の不在、あるいはコミュニケーションの不通に行き当たってしまうことが示唆される。
しかし、「相聞」、相聞くという漢字表記は、原義である「互いに相手の様子を尋ねること」にも通じる、相互のコミュニケーションという印象を喚起する。 佐々木朔「『紅い花』の相聞」(*2)
「羽根と根」二号の企画「あなたの好きな歌集」に佐々木が寄せた、辰巳泰子『紅い花』評から引いた。この歌集評で佐々木は「単に『恋愛の歌』『性愛の歌』の言い換え」としてではなく、原義に照らして集中の「相聞」のありようを読み解いている。
批評家としての佐々木のこの問題意識は、実作者としてのそれとかなりの部分重なっているように思う。
エマージェンシー・コールひびけば意味を持たぬ森をふたりで眺めにゆこう
ことばって火だしあなたの山火事ももう諦めなくてはいけないね
これ以上言えばこわれるぼくたちの間にシークワーサーサワー
朗読をかさねやがては天国の話し言葉に到るのだろう
だってあなたはわたしの暗喩かもしれず手をとればだれも帰れなくなる
ぼくたちはぼくたちの言葉で喋り秋の荒れ野の火を守ってた
本歌集の表題作「往信」から引いた。「往信」は、原義としての相聞を問い直し、乗り越えようと試みている連作である。
ぼくもあなたも互いに「小説」に似た、意味ありげすぎる「森」を抱え、しばしば相手をそこへ招き入れる。一方で、「意味を持たぬ森」は、「意味から解き放たれた」また別の種類の森で、ぼくたちの外側にあると読んだ。めいめいが育てた方の森は、相聞を重ねるうちに齟齬がつもり、ついに交わした言葉の火で燃えてしまう。
四首目は歌集の帯にも掲げられた、佐々木の代表歌。森の領域がどうであろうと、言葉は、繰り返し口に出すことで純化され、声は天へのぼる。そして、「天国の話し言葉」というもっとも原初的な、愛よりも意味よりも、ただ問いかけを交わすという相聞のかたちに到る。「かさね/やがては/てんごくの」と三、四、五音で階をのぼり、連体格の「の」でふっと宙空にとどまり、結句でふたたびO音の余響をのこす韻律が出色だ。
その直後に置かれた五首目。森の中で手を取ったらそれは小説のきみの手で、であるからには「始祖」のはずのきみ自身から乖離した、「わたしの暗喩」に過ぎないのかもしれない。ぼく(たち)は森の外への帰り道を見つけようとしている。
六首目は連作の末尾の歌。「こと/ば」と句を跨いだ「ぼくたちの言葉」は、「各々の言葉」とも「ぼくとあなたの共通の言葉」ともとれる。そのどちらでもあるのだと思う。いまはただ並んで同じ火を守っている。「天国の話し言葉」へのあこがれを持ち寄ったこの荒野から、ふたたび「相聞」を始めようとしているぼくたちは、森の外で手をつなぎ合えたのだろうか?
ここまで書いてきたわたしの文章そのものが、なんだかつい前のめりになって、いよいよ「森」めいてきたのだけれど、『往信』はまだまだ多彩な歌集だ。いくつか好きな歌を引きたい。
ひのくれのひとよひとよにひとかしてみごろしにするなんてわけない
こころにさかえた遺跡を湖にしずませてだれもが去ってから会いに来た
会いに行こうと思ったことはあるけれどそのたび膝に芙蓉が咲いて
外国のおみやげだとはわからない帽子で夏の農道をゆく
山門をくぐってのぼる石段の途中で雨のにおいに気づく
一首目の「ひとかして」について、歌集の栞で榊原紘は「火と化して」ではないかと読んでいて、それにも納得したのだけれど、わたしは一読して「人貸して」とお願い(おねだり?)しているのかなと思った。音韻でたわむれながら、天国の話し言葉のサンプリングを試みた、みたいな歌だ。
二、三首目は思慕と詩情、身体感覚の絡み合う塩梅もさることながら、初句八音、七音がはまっている。ちゃんと数えたわけではないけれど、『往信』には初句七音の歌が多い印象があって、テンションを高めていく急迫調というよりは、やわらかに水が湧き出すみたいな調子が特徴的だと思う。
四首目の「帽子」は、届いても真意がばれないのを込みで楽しむための「往信」を身に纏う、みたいな軽みがあって、いいなと思う。五首目もそうだけれど、「きみ」とか「森」の話から離れた歌では、しばしば風通しがよい空間を、五感をつかって歩む〈私〉のキャラクターが好ましい。
おそなつが非在のきみを在らしめて晴れるって言ってくれたのみどの
冒頭で引いた過眠の歌と、なんとなく対になりそうな歌だ。〈私〉はきみの言葉を反芻し、その声が発された喉をありありと思い浮かべている。思い浮かべたまま、きみの往信をくりかえし聞き取りながら、結句の言い差しが宙に浮いたまま、形の上ではいったん歌は終わる。しかしふたたび歌の声は初句に還って、序詞的にまた「きみ」を呼び出してくる。これは出口のない森だろうか。それとも、この言い差しの浮揚感が、天国の話し言葉に束の間わずかに近づいた兆しなのだろうか。わたしはわたしの声に佐々木の歌をのせ、空を仰いでみる。
(*1)『植物の百科事典』石井龍一・岩槻邦男・竹中明夫・土橋豊・長谷部光泰・矢原徹一・和田正三編、朝倉書店、二〇〇九年、九五頁 引用箇所の執筆は小池文人
(*2) 『羽根と根』第二号、二〇一四年、三五頁


