汽水には肉の護岸を ―田村穂隆『湖とファルセット』

 田村穂隆の第一歌集『湖うみとファルセット』(現代短歌社)では、その題が示す通り、「湖」のモチーフが変奏される。生活圏にあるらしい宍道湖、浴室、そしてなにより、みずからの心を容れる器として。

わたしから父が産まれるのが怖いわたしは怒鳴ることができない

人間の裸体が気持ち悪い 花器 産めないことを決めたわたしは

 固着した家父長制と男性ジェンダーが暴力を再生産し続けることへの恐怖と憎悪。産めない身体に生まれたのではなく、決断したゆえに産めないのだと言い切る〈わたし〉の意志は、陶器や硝子めいて硬質だ。

湖うみに降る雨を眺めていた 夜はきみに盗掘される身体で

何度でも強くなるから保冷剤みたいに強くなるから抱いて

どうせならディズニーランドになりたかった 過呼吸で滲んでいく夜景

 自罰のにおいを帯びて、性的に欲望されることを希う。身体という器を、盗掘に耐えうる強度へと意志の力でふたたび戻そうとする。崩れない岸がほしい。ディズニーランドの人工湖は、どれだけ雨を受けとめても溢れることなく、毎夜輝く。

(東京に出たい/何にもしたくない)この胸に波打つ汽水湖よ

 身体と性をめぐる懊悩が大都市圏以外から、風土を深く潜った言葉で歌われた点において、本書の意義は大きい。シスジェンダー、ヘテロセクシャルを前提とした価値観の支配は地方においてより強く、〈わたし〉をいっそう苛む要因の一つだろう。なのに家や山陰から逃れ出たい心でさえ、首都=権力=父なるもの、に縋ることへと回収されてしまうのではないか?
 だからせめて〈わたし〉は、中央と周縁、両の性、さらには身体と心が混ざりあうようにと、胸の湖を波打たせるのだ。それらがもはや二元でなくなる日まで。

はつふゆの日が差すシンク手もそして心も米に研がれるような

脳みその温度がやわらかく分かる右手を猫の額にあてて

 ときに自己の外部にまで展延されるひりついた肌感覚が繰り返し吐露される本書にあって、心とその器たる身体が穏やかに溶けあう歌に救われる思いがした。一首目は何気ない場面だが、「そして」以下のO音の頭韻が温かい。やわらかく猫の温度にふれるように、他者を、みずからを愛おしむことができたなら。切なる希求は、こわばった肉の護岸から裏声ファルセットとして絞り出される。

粘ついてくるファルセット越境のためにはもっと筋肉が要る

 その歌声は、いつか夢とうつつの混じる汽水湖を揺らし、〈あなた〉に、わたしたちに、優しく届くだろう。

朝焼けがあなたに見せている夢の中でわたしは浅蜊を茹でた

 

初出:「現代詩手帖」2023年1月号


現代詩手帖の短歌月評の第1回に書いた文章。

連載のタイトルは「うたいこがれる」。この命名も迷って、「うたいこがれるだと筆者の短歌の作風と近すぎるかなあ?」とある人に相談したら、「むしろ、だからこそいいと思う」というようなことを言ってもらえてうれしかったです。

『湖とファルセット』は2022年の3月に出たので、ちょっと時評的にはぎりぎりのラインかなあとも思ったのですが、第1回はぜひともこの歌集のパワーと勇気を借りたいなと思って。

余談ですが、この初回の原稿の準備中に現代歌人集会の秋季大会(冬にやるのになぜか秋季大会でおなじみ)が京都であって、田村さんに一言だけご挨拶(「また大森靖子の話とかゆっくりしましょう!」と言った気がする)できました。その日は懇親会に出ずに帰って、でも帰りのサンダーバードまですこし時間が空いたので、京都駅のカフェでこの歌集を読み返しながらメモを取ったのを覚えています。

時評とは言いつつ、基本的に毎月1冊ずつ歌集or歌書を取り上げて書くスタイルだったのでありがたかった。
そのときどきの短歌的な話題を取り上げるのよりは向いていたと思います。
もっとも、12月号=年鑑号にがっつり時評的なことを書くことになるのですが……。

あと、担当してくださった思潮社の編集さんが、毎回原稿拝受のメールに、内容を踏まえたクリティカルな感想を添えてくださって、本当に励みになりました。
短歌の場で「月評読んでるよ」「力筆ですね」などと声をかけてもらえたりもして、めちゃうれしかったです。

 

連載を始めるにあたって、いくつか自分ルールを決めました。

1.取り上げる本の著者の男女比を半々or女性>男性にすること

これについては、以前Blueskyでつぶやいたので、以下、その内容を再掲。

 

現代短歌よもやまばなし第6回「われわれの偏見とアファーマティブ・アクションの話」

牛尾今日子さんと田島捺さんのこの記事↑を読んだのがきっかけでした。

ざっくりいうと「意図したわけじゃないのに気づいたら男性の作者や評者にばっかり言及しちゃってたのやばくない?」みたいな話をしていて、いや確かにそうだよなあ……と思って。

それで自分が現代詩手帖の短歌月評(基本的に毎月歌集や歌書1冊を選んで紹介するフォーマット)を連載するにあたって、男女比は半々か女性の方が多いかにしよう、って決めて始めたんですよね。

もちろん本人が明示している場合を除いて男女二通りに分けて数えることも疑ってかからなければいけないし、なのであくまで便宜的になのだけれど、男性/女性(とみなされているだろう人)でカウントして、前者が後者を上回らないようにと思って取り上げる本を選んでいました。

結果が画像の通り(クリックで拡大)なんですけど、

・第12回、第24回は年鑑号に載った展望で、単著を取り上げた回でないため除外
・第17回ははるか昔の女性歌人の家集を現代の男性が訳したもので、アファーマティブ・アクションの観点からはカウントできないため除外
すると、第9回をどうカウントするかで達成できたかどうかが変わってきます。
この号は「詩論のクリティカル 分水嶺の先で」という特集にも入れてもらっていて、いつも1000字くらいのところ、4倍くらい書きました。
・女性にフォーカスしたアンソロジーを取り上げたのでカウント  → 達成
・単著を取り上げなかったのでカウントせず → 未達成

というわけで、あんなに最初から意識していたはずなのに、けっきょく最後は判定にもつれこむ、みたいな結果になってしまいました……。

2.せっかく詩の雑誌に載るので、「短歌ってなんなんだ……」と毎回考える

まあこれに関しては直接的にどうこうというか、気の持ちようの話ではあって、どのくらい文章に反映されているかはわかりませんが。

俳句の安里琉太さんと並走していて、俳句の月評も読めたのもよかったです。

Q.けっきょく短歌って? A.わからん。

3.批評だけど文章や各回のタイトルができるだけ詩でもあるように書く

まあこれもやりすぎてあざとくなって論旨がわかんなくなると元も子もないので、気の持ちようの話ではありますね。

 

そして現代詩手帖にはその後、俳句と短歌の月評欄自体が途絶えており、さみしい……。
復活してくれたらいいな。