夢のなかのミサンガ、または地の底のハーゲンダッツ・ヴェンダー

 夜の話をしよう。
 京都は宇宙一寒い。これは真理だ。そんな極寒の地の底にこの三月まで八年も住んでいたくせに、慣れるどころかいよいよ寒さに弱いこのごろである。新緑の季節になってもヒートテックを履いていたし、衣替えはまるまるひと月遅れる始末。彼の地での暮らしがこの体の構造を変えたとしか思えない。もちろん、思うだけである。
 住んでいたころ、夜にはよくあてどなく散歩した。空のずっと高いところに飛行機の明滅。コンビニで買った紙パックのいちごオレとか提げて、ときにはあほみたいに遠くまで、歩いた。なかに光を溜めた一両編成の叡山電車が、山のほうへ去ってゆくのを見送った。夜歩きに適した季節の入り口、宇宙一寒い冬がようやく終わりかけるころに哲学の道を踏破するのが、いつしか毎年の習いになっていた。
 満開の桜の、真夜中である。昼間、同じ場所に犇めいていたおろかな有象無象が嘘だったみたいに静かだ。ときおりどこかで野犬かなにかの鳴き声がするし、疎水の向こう岸の藪のなかでけものが動いたような音がするし、大きすぎる魚の影がぬろっとよぎるし、豊国神社の狛鼠はかわいい。でもこわい。肌がひりひりする。容赦なく、ものいわず降るばかりのはなびらのなかを、ふらふらと歩いた。

 夢の話をしよう。
 ひるまなのにくらいくらい路地をあなたと歩いている。否、市場だろうか。どちらにせよ狭い、道幅は。外国のようだ。左側には露店やお店の軒先がずらっとどうやら並んでいて、奥まで続いている。奥のほうはもっと暗いから、あまり見えないのだけれど。僕たちはいろいろな品を返しにきた。いろいろな混線やエラーで誰かの手に落ちた品々は僕らのもとへ集まり、それをあるべき場所へ還していく。奥へ奥へと進みながら、左手のお店の店先に置いていく。店主はいないし、中を覗こうとしても首がそっちへ向かない。いま通り過ぎた店でよかったのだったか、このアフリカの親指ピアノを置くのは。宝石や絨毯や剣やそういうのがうずたかく積まれている。かと思えば一瞬後には(いいえ、どこの店も木からできたものしか置いてないんだ――)という確信に射抜かれている。その繰り返し。

 ふと目の前に屋台。道をふさがれた格好だ。店主のおばあさんが一人。とりどりの尾を持つもの(をかたどったもの)が屋根からぶらさがっている。あなたは気付き、僕も同時に気づく。
 ミサンガ。
 あなたは左腕につけているミサンガを、おばあさんに、ぐっと腕を突き出して、見せる。
「お返しする機会がなくて」
「気に入ったかい?」
「はい」
「どこで?」
「ニューヨークにいたときに」
  なら気にすることないよ、と老婆は言う。
「あなたとミサンガのこれからについて、書いて、聞かせてくれればいい」
 なのであなたは水色と白のミサンガをまた連れていくことにする。
 僕の左腕で、黒と白のミサンガが切れる。

 来歴を話そう。
 そのミサンガは高校の部活の、クラリネットパートの同期五人がおそろいでつけていた手作りのものだった。高校を卒業した次の春、僕が雪山に行ったとき、宿の浴場の脱衣所で切れた。簀子の上に落ちたのを拾い上げた感触を、いまも覚えている。
 あなたと初めて出会ったのは、ミサンガが切れたずっと後のことだ。
 あなたは、もちろん、クラリネット吹きではない。
 僕はいまやクラリネット吹きではない。
 いちど切れたミサンガはくっついたりしない。ほんとうは。だけど、切れてしまう前の水色と白のミサンガにふたたび出会えて、やっぱりとてもうれしかった。ほんとうでなくても、うれしかった。

 なぜかひたすらになつかしい、ある自動販売機の話をしよう。
 哲学の道の、ひりひりと静かな夜のほとりにそれはある。お土産屋さんの前、街灯のさみどりの明かりを浴びて、自身はぼうっと真っ白なひかりを放ち、立っている箱。お金を入れてボタンを押せばハーゲンダッツ・アイスクリームが買える。こんなところなのに。こんなところなのに。微熱を帯びたぺらぺらでつるつるの見本写真に手のひらを当てながら、けれどもこれは一人で歩く真夜中のためのものではないと思った。というより、確信だった。いつかきっとあなたと、こんなふうなべつの真夜中に初めて買って食べるのだという、それは確信だった。

 宇宙一寒い地の底に住んでいたころ、あてどない夜を散歩しながら、光ばかりを僕はみあげまた見送っていた。手を振る代わりに手で触れられる光こそが、哲学の道のあのハーゲンダッツ・ヴェンダーだった、ように思う。もちろん、思うだけだ。思うだけでいい。いつかあの四角い白い箱にお金を入れてボタンを押すそのとき、あなたの左腕のミサンガが切れるのを、僕はきっと聞くだろう。
 そう思う。

 

初出:ネットプリント「ぺんぎんぱんつの紙 11PM」(2014年7月)