ほころび

 「人は簡単に変わらないけど、人の気持ちは変わるよ」と恋人は言った。冬の朝、バス停まで見送りに行ったときのことだ。バスを待ちながら「ずっと一緒にいたいね」みたいなことを僕は言った。私もそう思うよ、でも、と前置きした口から続けて放たれた言葉がそれだった。僕は何も言えなかった。

 春が来て、桜を濡らす雨が降る午後、目が覚めると恋人が僕の顔を覗き込んでいた。「うなされていたよ」と教えてくれた、あのかなしそうな目が忘れられない。僕をもうあきらめていた目だったのかもしれない。そのあと、傘を差して桜並木を歩いた。手はつながなかった。透明なふたつの傘に、花びらが降っては貼りついた。じきにまた流れ落ちてしまうのに。

 好きって気持ちはかたまりのように揺るがないものだと、その頃の僕は信じていた。だけど、愛で僕はゆるんで、ほころんで、ほどけてしまっていたのだった。

 まちじゅうの桜の樹がすっかり新緑に衣替えしたころ、恋人は僕に別れを告げた。

 ぜんぶがもう十年以上まえのことだ。しばらくは思い出すのもつらくて、なのにくりかえし夢に見たのだけれど、だんだんとうなされることもなくなった。ただ、「人の気持は変わるよ」という言葉だけが、呪いのように、楔のように心にずっと残っている。「雨が降ったなら部屋で抱き合っていよう」とaikoがあきらめをはらんだ優しい声で歌うのを聴いて、あの春をまざまざと思い出したのだった。

 「人の気持ちは変わるよ」。たしかにそうだろう。でも、ならなおさら、伝えたいって今なら思う。変わるたびにぜんぶを言葉にするのは無理だとしても。愛が気持ちをとかして流し去ってしまうまえに。雨の軒下でビニール傘をたたむとき、そこに貼りついた桜の花びらに気づいたら、隣にいるだいじなひとに教えたい。愛のほころびをまた次のつぼみにするために、よくある幸せなんかじゃない今を伝えて、分けあおうとするほか僕にはないのだ。

初出:「Quick Japan」vol.155
aikoエッセイ大賞受賞作  aikoの楽曲「愛で僕は」に寄せて
aikoのアルバム『どうしたって伝えられないから』から任意の1曲について書く公募企画。
13曲あるので大賞は13人、そのうちの1編に選んでいただきました。