裏・TOKYO2020 ―みづな and アキ『約束のあとさき』書評

 『約束のあとさき』の著者は「みづな and あき」、すなわち喜多昭夫と森尾みづなの共作による歌集である。本書のゲラを読んだ際は、一人が一首を作って返歌をつなげていく方式だと思って読んだのだが、あとがきによると、著者二人による言葉の応酬を通して一首一首が作られたらしい。

 「カクテルパーティ効果」という言葉を思い浮かべた。めいめいが好き勝手に喋るパーティ会場のざわめきの中にあっても、自分の話し相手の言葉を選択的に聞き分けられるような、人間の聴覚の特性を言う。初読の際のわたしは、「みづな」と「あき」が交わす会話を聴こうとした。そうではなく、本書の歌たちは、パーティ会場の喧騒から拾った言葉を、意図的に誤読しながらつなげる、二人の共謀から生まれていたのだ。

パントマイムとマイムマイムが仲たがいしているような春の夕暮れ

日光と月光ですか郭公と学校ですかどちらでしたか

フォークダンス全盛期にはりんご派とハト派で手の握り方がちがう

 意味の上では対にならない名詞を、音の近さによって並置した一、二首目は、それぞれ「春の夕暮れ」「日光と月光」といった花鳥諷詠的な美意識と接続することで、裏返って調和に転じ、あるいは読み手への問いかけで歌いおさめて煙に巻く。三首目は「ハト派」に対して「タカ派」ではなく、カテゴリを越境して「りんご派」を置くことで、ハトとタカの対立そのものを愉快がりながら矮小化しているようだ。

 解説で石松佳が二人の遊戯的な交歓を「delightful verse」と呼んだ通り、読者もその楽しさの波間を漂うことになる。一方で、独特の静謐さにも目を引かれた。

昼下がり2時と3時が待ち合わせ影だけが正しい公園で

一枚の切手に余る水を恋う不思議なとしのとりかたをして

心臓に細い夜道を覚えさせ蛍のことは言わないでおく

 これらの歌は近代短歌的なコードで一人の〈私〉を背後に置いて読んでも秀歌だが、ともすれば膨張しがちな誰かへの思慕が、ごく抑制された呼吸で歌われる。あたかも共謀を確かめあうひそひそ話、あるいは無言の目配せのように。

 二人の耳はまた、「ピンポンパン体操」から「うっせぇわ」に至るまで、戦後日本の大衆文化を順不同に聞き取りながら、ときおりえぐい角度からのおちょくりを紛れ込ませる。

オリンピックを紙芝居にする法案が可決されました。

オリンピックが紙芝居でもま、いいか オムライスにははずれがない

キシヲタオ…

岸さんが蛍光ペンのイエローで「岡井隆」と書く夏季補講

晩鐘がよく似合う国にっぽんは今年の夏もわびさびでしょう

 都内に緊急事態宣言が出されるなか、「TOKYO2020」が無観客で開催された二〇二一年の夏は、奇妙な季節だった。あとがきによれば、本書の歌を制作するやり取りは「二〇二一年六月二十六日から九月十五日にかけて」なされた。前年に大観衆と喝采に満ちるはずだった祭典の、空々しい仕切り直しの熱狂。この紙芝居はおそらくシャッフルされており、正しく時系列に直せない。あるいは今回の五輪に限らず、どれだけ夏を重ねても、強い西陽が当たれば見えなくなる蛍光イエローのように、にっぽんは虚無的な明るさに消えてゆくに過ぎないのではないか?

裏の裏は表であるから太平洋側はすなわち裏裏日本

純粋な愛の強度で新・新国立競技場を建てるんだ

 首都に満ちる喝采の虚ろさを、無観客の二〇二一年夏に、しかも「裏」側から突きつけたことが、(意図的に主題に据えたのでないにせよ、)この歌集のユニークな達成だと思う。喜多と森尾は、かつて「裏日本」と呼ばれた日本海側に位置する石川県で知り合った。二首目は「新・新国立競技場」を空想する幼く虚無的な「愛」へのアイロニーと読みたい。

人目にはつかないところに泡で出るハンドソープと手のひらの仲

不可思議の池に音なく飛び込んだ蛙に誰も気づかなかった

口笛は野に消えのこりそのむかしらいとばーすはもてはやされた

 紙芝居の読み手は、紙芝居の裏側に立ち、裏に書かれた言葉を読み上げる。人目につかない「裏」の場所で、誰にも顧みられない飛び込みを証言し、消え残る「らいとばーす」に耳を澄ませる。『約束のあとさき』は、喝采でも無観客でもない、共謀のバースに活路を見出そうと企てる一冊なのである。

うっすらと静かな場所に日があたる冷やし中華の看板の裏

 

初出:「つばさ」19号(2023年)