見えるものと消えないもの(土岐友浩『僕は行くよ』書評)

 本書において土岐は歩き、眺め、また歩く。目の前のものを精確に描写する一方で、自己と世界について思索する。2DのRPGをプレイするとき、マップを歩く主人公を見下ろす視点が、敵との遭遇エンカウント時には主観に切り替わる、その反復にも似て。

ローマ字の表札がある あじさいの葉っぱが雨をこぼして揺れる
高瀬川あたりにはもう自転車は停められなくてからかさお化け
多摩川はやたらと広く僕という一人称の卑しさを知る

歩みながらの思索はしばしば〈無〉や〈死〉に及ぶ。

死んだ人は歩けなくても見ることはできるだろうか水無月の水

 幽霊は典型的には足を持たないが、では視覚は残っているだろうか。可視と不可視の間を絶えずゆらぐ「水」に「水無月の」と冠されることで、もう一段階不在のレベルが上ったようだ。では、生きて死者を想う私は、何を見て何を見ていないのだろう。
 死者と水の主題系は第一歌集『Bootleg』の〈僕の手を離れて水になっている母を亡くした春の記憶は〉といった歌にも見ることができる。本書では父への挽歌「ホッキョクグマ」一連が水族館の歌から始まることも示唆的だ。だが、この連作には父が死んだという事実への直接の言及はない。そして、これまた足を持たない〈蛇〉が見せ消ちされる。

へび年の「巳」という字ではありません 父の名前を何度か直す

 平成を三十一首で詠んだ「落下するヒポカンパス」一連は、初出時には詞書で父母の名前と没年が明記されていたが、歌集では消されている。

触ろうとしただけなのに落下したヒポカンパスに目をつぶされる
蹴り出せば石は世界をそれなりに転がるけれど血のついた石

 この時代に生み落とされた私たち竜の落し子ヒポカンパスは、不在や死にまつわる世界の不条理に溺れても、ふたたび歩き出せるだろうか。最後に引く歌は、落下しやがて消える雪に託して、可視であれ不可視であれ、見るという不毛な営為そのものを愛おしみ、希望を見出す歌と読みたい。

大切なものじゃないから目に見える イオンモールに降るぼたん雪

土岐友浩『僕は行くよ』(青磁社、2020年)

初出:「歌壇」2021年7月号