ミドリさん

 「ミドリさん」という常連客の話を、友人から聞いた。
 洋菓子店で働く東京の友人である。ミドリさんというのは店員がつけたあだ名で、本名は「チエミさん」というのだそうだ。
 さて、友人はいかにしてミドリさんの本名を知り得たのか。理由はごく単純で、彼女が全ての持ち物に名前を書いているから、だそうだ。きまって緑色のペンで。だから、ミドリさん。友人いわく「鞄にも財布にも帽子にもSuicaにも」という徹底ぶりである。
 そればかりか、「マドレーヌやリーフパイも、名前を書いてからカゴに入れる」というから、ちょっと尋常じゃない。習慣が徹底しているのはすごいが、ミドリさん、それってフライングである。
 でも待てよ、と僕は考える。ミドリさんは果たして本当にチエミさんなのだろうか。「チエミ」というのが彼女の名前ではなくて、彼女の持ち物の名前である、とは考えられないだろうか。新しく手に入れるものに彼女は「チエミ」と名づけ続けるのだ、緑色のペンで、何度でも。
 ミドリさんの本名は、だから実は誰も知らない。

初出:「京大短歌」18号